BNPパリバ フェドカップ2009 ワールドグループ II 1回戦『日本対セルビア』 :フェドカップについて

フェドカップの歴史

{この文章は2008年度版です}

フェドカップ(フェド杯)は、俗に「デ杯の女子版」といわれる、国際テニス連盟(ITF)が主催する女子の国及び地域別対抗戦です。

フェドカップの前身、フェデレーションカップが創設されたのが1963年。このイベント構想を最初に提唱したのは、ヘイゼル・ホチキス・ワイトマンという米国の女子チャンピオンで、1919年のことでした。この年、全米選手権(全米オープンの前身)に8年ぶり4度目の優勝を遂げたワイトマン夫人は、国際ローンテニス連盟(ILTF=現在の国際テニス連盟)に、「女子にもデビスカップのような対抗戦を」とアピールしました。しかし、当時の女子テニスは世界的に見て普及度も低く、条件が熟していないという理由で、ILTFは、この要請を却下しました。このILTFの回答に、ワイトマン夫人は「女子でも立派な選手権競技ができる」ことを立証しようと、自らカップを寄贈し、当時の女子2大強国である英米対抗戦を組織しました。これがワイトマンカップで、1923年から1989年まで続けられました。

1962年になって、米国人と結婚した英国の元ワイトマンカップ代表選手メアリー・ハードウィック・ヘア夫人が、ILTFに出した起案書が年次総会で満場一致で賛成となり、遂にフェデレーションカップが実現します。1963年はILTFの創立50周年に当たり、同連盟は記念行事を模索していたところでした。ヘア夫人の提案は、個人トーナメント同様、1カ所に参加国・地域代表を集め、1週間の勝ち抜きで行うというもので、各対戦は、シングルス2、ダブルス1の3試合制。この方式は1994年まで続けられました。ちなみに、フェデレーションは国際テニス連盟の「連盟」から名付けられたものです。

第1回大会は、1963年6月、英国ロンドンのクイーンズ・クラブで行われ、米国がオーストラリアを破って、初代の女王国となりました。参加は16カ国と少なかったので、会期はわずか4日間。その後、参加国が増えるに従って、本戦32カ国プラス予選という方式に変更。しかし、このまま参加国が増えれば、大会の運営が難しくなることに加え、女子テニスの普及やレベルアップに役立つイベントにすることの2点をふまえ、1995年からはフォーマットを一新し、デビスカップと同様に、ワールドグループ制を採用しました。それと同時に、大会名称そのものも「新聞・雑誌の見出しやロゴマークとしては長すぎて使うのが不便」というメディアの声に応えて短縮され、「フェドカップ」が正式名称となりました。

フェデレーション杯としての最終年、1994年の大会参加は73カ国と地域でした。フェド杯となった最初の年、1995年は84カ国、1996年は94カ国。新方式となって、参加国が急増していることがわかります。また、1990年が47カ国ですから、90年代に入り6年間でちょうど“倍増"したことになります。タイ(対戦)がこのように世界中で行われ、このようにテニスファンも増えて、8万人以上の人がこのフェド杯ワールドグループⅠを観戦しました。そして99年は99カ国の参加という記録をつくりました。

2000年から新方式が採用され、ワールドグループは13カ国で、2週間でタイトルを争いました。第1週は12カ国を3グループに分け3ヶ所で4カ国による総当り戦を行い、第2週は各グループの勝者3チームと前年の優勝者による勝ち抜き戦を行い優勝国を決定します。地域予選大会はグループII、グループIに分けて総当り戦を行いグループIの第1位がワールドグループに昇格、グループIIの1・2位はグループIに昇格、グループIの最下位2カ国がグループIIに降格される方式で行われました。

2004年はワールドグループ16カ国の下に、デビスカップ同様に世界を3つの地域に分けたゾーン(アジア・オセアニア、欧州・アフリカ、米国)があり、これらの3つのゾーンは、それぞれがレベルに応じて、欧州・アフリカがI(1部)、II(2部)、III(3部)、ほかの2地域のゾーンは、I(1部)、II(2部)のグループに分けられ、ワールドグループも入れて、91カ国が出場しました。2005年以降は、ワールドグループを2部制とし、16カ国をそれぞれ2つに分け、8カ国ずつで戦われています。

日本は1964年の第2回大会に初参加、以後66年〜69年を除いては毎年、参加しています。なかなか世界のカベは厚く、ベスト8入りができませんでしたが、94年『フェデレーション杯』として最後の大会でついに準々決勝に進出。1995年の『フェド杯』スタートでは最高位のワールドグループに入りました。残念ながら、ドイツとの1回戦(フライブルグ)に1-4で敗れましたが、この後の入れ替え戦ではグループⅠのカナダを下し、1996年シーズンもワールドグループでプレーする権利を得ました。

1996年大会の日本は、1回戦でドイツと対戦し、3−2でグラフ率いるドイツを破り、準決勝に進出。米国に敗れましたが、日本女子テニス史に栄光を刻み込みました。2000年はアジア/オセアニア グループⅠ予選イベントに出場し、日本チームは見事優勝し、ワールドグループ出場の権利を得ました。

2001年はワールドグループ1回戦でアルゼンチンと対戦し惜敗しました。プレーオフではスウェーデンと対戦、惜しくも敗れ、アジア/オセアニアゾーンの降格が決定しました。

2002年はアジア/オセアニアゾーンで勝ち、プレーオフ出場の権利を得ましたが、コロンビアとの対戦で相手国の国情により棄権したため、アジア/オセアニアゾーンの残留となりました。

2003年にはアジア/オセアニアゾーン・グループⅠを勝ち抜き、さらにワールドグループ・プレーオフではスウェーデンを破ってワールドグループに返り咲きを果たしました。

2004年シーズンの日本はワールドグループ復帰第1戦は4月強豪アルゼンチンとアウェーのブエノスアイレスでの対戦となりましたが惜敗したため、7月にブルガリアにて2005年のワールドグループ残留をかけての戦いに挑み、2-2から最終戦のダブルスにて勝利し、今年度のワールドグループⅡでの出場を勝ち取りました。

日本女子で、シングルスとダブルスを合わせて最も出場試合数が多いのは沢松(現姓吉田)和子の54試合です。シングルスの30試合出場、そしてシングルス25勝、ダブルス19勝も最多である。シングルス、ダブルス合計の勝ち星44勝は、世界でも有数の記録になります。

日本のフェドカップで最多ゲーム数を記録したのは、1997年ワールドグループ1部1回戦対フランス最終日に、沢松奈生子がN. Tauziatに計54ゲームで敗れた試合です。この試合は、世界でも最多ゲーム数試合であり、最終セットの17−15の計32ゲームも1セットの最多ゲーム数となっています。また、日本女子の最少ゲーム数試合は、計12ゲームというのが8回ある。その内、敗れたのは1度だけ。最近では、2003年のアジア・オセアニアゾーン・グループ1部で浅越しのぶ、小畑沙織が1度ずつ完封勝ちを収めています。

2005年日本はワールドグループII1回戦でチェコとアウェー(敵地)で対戦しましたが惜敗し、ワールドグループII残留を賭け地域優勝のブルガリアとプレーオフを7月に行い残留に成功。

2006年日本はワールドグループ昇格を目標に、1回戦スイスと東京有明で対戦し4-1で制しました。ワールドグループ昇格を賭けたプレーオフを7月同じく有明にオーストリアを迎え5-0と完勝し、見事ワールドグループに返り咲きました。

2007年日本は悲願のフェドカップ優勝を目指して、フランスと4月にアウエー(フランス・リモージュ市)で戦いましたが、0-5で惜敗しました。

いままでの大会の情報(2003〜2006)
2006 対オーストリア戦 【WORLD GROUP Play-off】
2006 対スイス戦 【WORLD GROUP II 1R】
2005 対ブルガリア戦 【WORLD GROUP II プレーオフ】
2005 対チェコ戦 【WORLD GROUP II 1R】
2004 対ブルガリア戦 【WORLD GROUP プレーオフ】
2004 対アルゼンチン戦 【WORLD GROUP 1R】
2003 対スウェーデン戦 【WORLD GROUP プレーオフ】
2003 アジア・オセアニアゾーン 予選 グループ I & II

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フェドカップ ワールドグループ・プレーオフ 中村藍子 VS バーバラ・シュワルツミニプレビュー動画(ご覧になるにはフラッシュプレイヤーが必要です)

植田監督からのアドバイス-JTAテニス!オンライン

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