{この文章は2008年度版です}
フェドカップ(フェド杯)は、俗に「デ杯の女子版」といわれる、国際テニス連盟(ITF)が主催する女子の国及び地域別対抗戦です。
フェドカップの前身、フェデレーションカップが創設されたのが1963年。このイベント構想を最初に提唱したのは、ヘイゼル・ホチキス・ワイトマンという米国の女子チャンピオンで、1919年のことでした。この年、全米選手権(全米オープンの前身)に8年ぶり4度目の優勝を遂げたワイトマン夫人は、国際ローンテニス連盟(ILTF=現在の国際テニス連盟)に、「女子にもデビスカップのような対抗戦を」とアピールしました。しかし、当時の女子テニスは世界的に見て普及度も低く、条件が熟していないという理由で、ILTFは、この要請を却下しました。このILTFの回答に、ワイトマン夫人は「女子でも立派な選手権競技ができる」ことを立証しようと、自らカップを寄贈し、当時の女子2大強国である英米対抗戦を組織しました。これがワイトマンカップで、1923年から1989年まで続けられました。
1962年になって、米国人と結婚した英国の元ワイトマンカップ代表選手メアリー・ハードウィック・ヘア夫人が、ILTFに出した起案書が年次総会で満場一致で賛成となり、遂にフェデレーションカップが実現します。1963年はILTFの創立50周年に当たり、同連盟は記念行事を模索していたところでした。ヘア夫人の提案は、個人トーナメント同様、1カ所に参加国・地域代表を集め、1週間の勝ち抜きで行うというもので、各対戦は、シングルス2、ダブルス1の3試合制。この方式は1994年まで続けられました。ちなみに、フェデレーションは国際テニス連盟の「連盟」から名付けられたものです。
第1回大会は、1963年6月、英国ロンドンのクイーンズ・クラブで行われ、米国がオーストラリアを破って、初代の女王国となりました。参加は16カ国と少なかったので、会期はわずか4日間。その後、参加国が増えるに従って、本戦32カ国プラス予選という方式に変更。しかし、このまま参加国が増えれば、大会の運営が難しくなることに加え、女子テニスの普及やレベルアップに役立つイベントにすることの2点をふまえ、1995年からはフォーマットを一新し、デビスカップと同様に、ワールドグループ制を採用しました。それと同時に、大会名称そのものも「新聞・雑誌の見出しやロゴマークとしては長すぎて使うのが不便」というメディアの声に応えて短縮され、「フェドカップ」が正式名称となりました。
フェデレーション杯としての最終年、1994年の大会参加は73カ国と地域でした。フェド杯となった最初の年、1995年は84カ国、1996年は94カ国。新方式となって、参加国が急増していることがわかります。また、1990年が47カ国ですから、90年代に入り6年間でちょうど“倍増"したことになります。タイ(対戦)がこのように世界中で行われ、このようにテニスファンも増えて、8万人以上の人がこのフェド杯ワールドグループⅠを観戦しました。そして99年は99カ国の参加という記録をつくりました。
2000年から新方式が採用され、ワールドグループは13カ国で、2週間でタイトルを争いました。第1週は12カ国を3グループに分け3ヶ所で4カ国による総当り戦を行い、第2週は各グループの勝者3チームと前年の優勝者による勝ち抜き戦を行い優勝国を決定します。地域予選大会はグループII、グループIに分けて総当り戦を行いグループIの第1位がワールドグループに昇格、グループIIの1・2位はグループIに昇格、グループIの最下位2カ国がグループIIに降格される方式で行われました。
2004年はワールドグループ16カ国の下に、デビスカップ同様に世界を3つの地域に分けたゾーン(アジア・オセアニア、欧州・アフリカ、米国)があり、これらの3つのゾーンは、それぞれがレベルに応じて、欧州・アフリカがI(1部)、II(2部)、III(3部)、ほかの2地域のゾーンは、I(1部)、II(2部)のグループに分けられ、ワールドグループも入れて、91カ国が出場しました。2005年以降は、ワールドグループを2部制とし、16カ国をそれぞれ2つに分け、8カ国ずつで戦われています。
日本は1964年の第2回大会に初参加、以後66年〜69年を除いては毎年、参加しています。なかなか世界のカベは厚く、ベスト8入りができませんでしたが、94年『フェデレーション杯』として最後の大会でついに準々決勝に進出。1995年の『フェド杯』スタートでは最高位のワールドグループに入りました。残念ながら、ドイツとの1回戦(フライブルグ)に1-4で敗れましたが、この後の入れ替え戦ではグループⅠのカナダを下し、1996年シーズンもワールドグループでプレーする権利を得ました。
1996年大会の日本は、1回戦でドイツと対戦し、3−2でグラフ率いるドイツを破り、準決勝に進出。米国に敗れましたが、日本女子テニス史に栄光を刻み込みました。2000年はアジア/オセアニア グループⅠ予選イベントに出場し、日本チームは見事優勝し、ワールドグループ出場の権利を得ました。
2001年はワールドグループ1回戦でアルゼンチンと対戦し惜敗しました。プレーオフではスウェーデンと対戦、惜しくも敗れ、アジア/オセアニアゾーンの降格が決定しました。
2002年はアジア/オセアニアゾーンで勝ち、プレーオフ出場の権利を得ましたが、コロンビアとの対戦で相手国の国情により棄権したため、アジア/オセアニアゾーンの残留となりました。
2003年にはアジア/オセアニアゾーン・グループⅠを勝ち抜き、さらにワールドグループ・プレーオフではスウェーデンを破ってワールドグループに返り咲きを果たしました。
2004年シーズンの日本はワールドグループ復帰第1戦は4月強豪アルゼンチンとアウェーのブエノスアイレスでの対戦となりましたが惜敗したため、7月にブルガリアにて2005年のワールドグループ残留をかけての戦いに挑み、2-2から最終戦のダブルスにて勝利し、今年度のワールドグループⅡでの出場を勝ち取りました。
日本女子で、シングルスとダブルスを合わせて最も出場試合数が多いのは沢松(現姓吉田)和子の54試合です。シングルスの30試合出場、そしてシングルス25勝、ダブルス19勝も最多である。シングルス、ダブルス合計の勝ち星44勝は、世界でも有数の記録になります。
日本のフェドカップで最多ゲーム数を記録したのは、1997年ワールドグループ1部1回戦対フランス最終日に、沢松奈生子がN. Tauziatに計54ゲームで敗れた試合です。この試合は、世界でも最多ゲーム数試合であり、最終セットの17−15の計32ゲームも1セットの最多ゲーム数となっています。また、日本女子の最少ゲーム数試合は、計12ゲームというのが8回ある。その内、敗れたのは1度だけ。最近では、2003年のアジア・オセアニアゾーン・グループ1部で浅越しのぶ、小畑沙織が1度ずつ完封勝ちを収めています。
2005年日本はワールドグループII1回戦でチェコとアウェー(敵地)で対戦しましたが惜敗し、ワールドグループII残留を賭け地域優勝のブルガリアとプレーオフを7月に行い残留に成功。
2006年日本はワールドグループ昇格を目標に、1回戦スイスと東京有明で対戦し4-1で制しました。ワールドグループ昇格を賭けたプレーオフを7月同じく有明にオーストリアを迎え5-0と完勝し、見事ワールドグループに返り咲きました。
2007年日本は悲願のフェドカップ優勝を目指して、フランスと4月にアウエー(フランス・リモージュ市)で戦いましたが、0-5で惜敗しました。